プロフィール
山城聖也(やましろしょうや)
1992年生 身長152cm 体重53kg
階級→53kg級・56kg級
沖縄生まれ沖縄育ち
本当最南端の糸満市で育つ
ウエイトリフティングの経験を生かしトレーナーとして活動している。
【資格】
・NSCA-CPT
・ウエイトリフティング3級審判資格
・日本体育協会認定 スポーツリーダー
・JCCA認定 ベーシックインストラクター
etc…
【指導歴】
・サッカー選手のためのウエイトリフティングセミナー(東京)
・初めてのウエイトリフティングセミナー(大阪)
・東京都立深沢高校バレーボール部トレーニング指導(東京)
・ウエイトリフティング練習会(沖縄)
など
【競技歴】
・高校 インターハイ準優勝 国体優勝
・法政大学 インカレの団体優勝に2度貢献
・社会人 国体九州ブロック大会 4連覇(53kg級記録保持者)
福井国体
53kg級クリーン&ジャーク競技準優勝
〃 スナッチ競技 5位
〃 トータル 5位
[小学校時代]
小学校の頃から動くのは好きだった記憶があります。
各学年1クラスの小学校では部活が少なかった。
小1の時に友達が入部した野球部に入るも1年も経たずに幽霊部員になる。
そして小3の時にはバスケ部に入ろうとしたらそのバスケ部が廃部になる。
小5の時にはバレー部が発足され初期メンバーになるも男子が集まらず再び幽霊部員になる。
小学校で気がついたことは
「団体スポーツがあまり好きではない」
ということでした。
当時から自由気ままにやりたい性格だったみたいです。
[中学校時代]
部活は個人競技をやりたかったので
部員も少なかったバドミントン部へ入部
しかしバドミントン部は顧問が経験者ではなく
指導者不在でした。
指導者がいないので自由に部活をやっていて楽しかったです。
シングルでやりたかったのになぜか3年間ダブルスをしてました。
「まぁ2人だからいいか」と思ってやってたら
まさかの中3の時に県大会出場できました。
バドミントンが楽しかったので
高校でも続けようと思っていました。
[高校時代]
家が近いという理由で糸満高校へ入学
さっそくバドミントン部へ体験に行きました。
しかし練習がきつくて入部は諦めました。
バイトを探してると
ウエイトリフティング部の顧問の先生に
「大会に登録したから明日から練習して」
と言われて素直な僕は練習に行きました。
結局大会に出て
部活をやめるにやめられず続けました。
高校2年の時には九州大会で53kg級3位になりました。
3年生の時には
全国選抜大会2位、
インターハイ2位、
国体は優勝しました。
7大学から推薦で呼ばれて
進学を迷っていました。
どうせなら強い大学へ行きたいと思い
インカレで団体戦最多優勝をしている
法政大学へ進学を決めました。
[大学時代]
2011年
インカレで最多団体優勝を誇る法政大学へ入学
田舎者がいきなり東京へ
今時珍しいくらい規律正しい
重量挙部でした。
1・2年生は大学へ行くときは
学ランで通学でした。
慣れない生活で1年生の仕事などあり
キツくないといえば嘘になりますが
楽しいことも沢山ありました。
1・2年生の時にはインカレメンバーに選ばれ、
クリスマスに団体優勝を経験しました。
あの時のビールかけは忘れられません。
3年生の時には記録が伸びず
インカレメンバーから外れました。
試合でもベストがなかなか出ず
不調の1年間でした。
4年生になり
1年ぶりに記録が伸び
試合でも調子が良くインカレメンバーに選ばれました。
しかし、トップバッターにもかかわらず
失格してしまいました。
団体戦は2点差で日本大学に負けてしまい準優勝
かなり悔しい思いをして4年間が終わりました。
[社会人〜現在]
2014年〜
大学卒業後は沖縄に戻ってきて
体育館の管理スタッフとして2年間働きました。
体育館で見る様々なスポーツに興味を持ち
管理よりも直接スポーツに関わりたいと言う気持ちが湧き出てきました。
そして大学まで続けたウエイトリフティングを仕事にしたいと思いました。
調べるとトレーニングでウエイトリフティングの種目のスナッチとクリーン&ジャークは
多くの利点があるにもかかわらず指導できるトレーナーが少ないということを知りました。
そこから24歳の時にスポーツ系の専門学校へ入学
1年間のコースで勉強をしました。
担任の先生からの紹介で
パーソナルトレーニングスタジオへ
トレーナーとして所属させてもらいました。
1年間所属した後に
もっとウエイトリフティングに特化したトレーナーになりたいと思いフリーになることを決意。
現在はSNSでウエイトリフティングのテクニックを発信
Twitterのフォロワーは2千人を超える
セミナーなどで全国を回るなどして
ウエイトリフティングのテクニック指導を行う。